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2024/12/10

地方自治、準公共データ、デジタル庁、当研究所の意義などについての議論【プロトタイプ政策研究所因島合宿レポート(2024年7月6日)】

    プロトタイプ政策研究所は去る2024年7月5・6日に広島県の因島にて、合宿を行いました。合宿では、様々な社会課題に対して活発な議論がなされました。本記事は2日目の議論の議事録(要旨)です。

    ●ローカルルール

    宮田 規制改革をやっていて共通で突き当たるものとして「ローカルルール」(地方の条例)がある。厚労省周りが多いが、法律の一部権限(監視監督権限などを含む)を都道府県、自治体(市町村)に落として、それに基づいて自治体が独自条例を作っている。担当者が変われば運用が変わるのはそれとして、自治体によって運用がまちまちだったりする。

    宮田 規制改革をやろうとしたときも、例えば自治体の条例まで含めて考えなければいけないが、ただ1700ある自治体一つ一つと交渉するとすれば30年仕事になるので、基本的に諦めるしかない。国から通達を出しても、従う自治体もあれば、無視する自治体もあるので、全国共通にはならないことが多い。こういったローカルルールをどう変えていけばいいのかという問題意識をもっている。

    宮田 そもそも地域性があるものはどれくらいあるのか。例えば、医薬品の許認可・監視監督、旅館や温泉の衛生基準など、観光政策としての地域性はあるとしても、衛生政策として地域性は必要ないはずである。本当に地域性があるのか疑わしいものが地方の条例に落ちていると思われるので、国と地方の役割をゼロベースで見直すべきだと考えている。また別の観点からは、地方自治体には職員がおらず、自治体の行政機能の維持すらままならない。そこで、国レベルで一律でやった方がいいものは全部引き上げる、というような大きい流れができればいいのではないか。

    宮田 「ローカルルール見直しに係る基本的な考え方」の考え方自体は賛成であるが、規定内容そのものについてもっと取り組む必要があると思う。

    落合 デジ行財で言われているデジタル化だけではなく、供給制約の解消手段として共通化をどう捉えていくかという視点はあると思う。

    吉井 医療の地域性として納得できるのは、風土病、物理的な距離の大きさ(例えば、病院がとても遠いので服薬期間が長くてもいいのではとか)ぐらいだった。私は、議論が両極端すぎると思っている。つまり、「国が一律にルール作るか、そうでなければ全部個別任せ」になっているが、本来はその中間があるはずではないのか。ただ、その中間を考える主体が、今の仕組みだと都道府県とかしかない。しかし、都道府県となると、その都道府県の中にも、都市部と山間部があるから、個別対応・自治体の実情に応じて、となってしまう。そこで、違う切り口で自治体を考える主体を入れるというのが一つの考え方かもしれない。「人口と物理的な大きさなどで括って、いろいろな行政エリアにおける規制をある程度類型化した上でやり方を示す」というような主体があってもよいのではないか。


    >統治機構論との関係

    稲谷 (ローカルルールをもう少し共通化して議論しようという話は)道州制を含めた統治機構の改革なども含む、大きな改革の議論であると理解している。「今の小さな地方公共団体ごとに自治をやること自体にどのような意味があるのか」「どこからどこまで地方公共団体が、どこからどこまで国がやるべきことなのか」といった話と関係して、憲法の地方自治の本旨という条文の解釈問題になると思う。憲法の先生で、デジタル化による統治構造変化の可能性を踏まえて、地方自治の本旨について踏み込んで書いている人がどの程度いらっしゃるのかは存じ上げない。

    落合 道州制の議論までやるのがいいのかどうかというのはあるが、少なくともデジタル化や規制の合理化という文脈と統治機構の話は絡めて出てきそうなので、こちらでもいろいろと準備できたほうがよい。

    稲谷 地方と国の棲み分けをどうやり直すのかというあたりは明らかに問題になる。このほかにも、代表制をどうするのかという問題もある。すなわち、地方については、シビックテックがどんどん出てきて地方自治のやり方が変わってくるという話になると、例えばどこまで地方議会の代表制を維持するのかという問題も出てくる。代表制のロジックと、直接民主制、とくにテクノロジーを使ったタイプの民主制をどう整理し直すのかというのは結構重要な論点になる可能性がある。

    落合 こういった議論がDAOについては薄いように思われる。

    稲谷 それをもっと本格的に論じていくべきだろう。この問題は、アジャイルガバナンスのマルチステークホルダーをどう考えるのかという話とも関係してくる。地方と国の権限分配とは別のテーマではあるものの、重なり合う問題意識が存在するとは思っている。


    >デジタル庁の直面する課題

    クロサカ デジタル庁(以下、「デジ庁」と言う。)がなぜ苦労しているのか。デジ庁が構造的に問題を解けない状態に陥る一つの背景として憲法95条があるが、その話とセットで考えないと壁にぶつかるのではないか。デジタルガバメントや自治体クラウドに関して言えば、多くの権限は47都道府県に残存しており、何をやろうとしても多くはこれまでのスキームに回収される。2000年代前半からリーマンショック前までの間に、立法府でも道州制の検討について機運が高まっていた時期があるが、気がつけば消えてしまった。その失敗を繰り返さず、車輪の再発明をしないために、その当時に与党で道州制にポジティブだった人に尋ねてみるというのもよいと思う。当時は自民党の中でも道州制に移行した方がいいという人が少なくなかった。今はDAOという形態で水面下で新しい自治のあり方についてゲリラ活動しているのかもしれないが、それをポジティブに活かしつつ、現実として目の前に立ちふさがる壁は何なのかを特定してみてもよいかもしれない。デジ庁が経験している壁はまさにデジ臨で立ち向かおうとしてグレーになってしまった状態のところでもある。

    稲谷 条文上の壁に加えて、「都道府県」自体が明治時代のマインドセットで出来上がっているというのも原因だと思う。フランスから直輸入した“Prefecture”という考え方は、中央集権的に上から改革をやろうというマインドセットなので、今やろうとしているデジタル化という話とあまり相性がよくないようにも思われる。ここをどうするかというのはかなり根深い問題で、でもここから本当は掘り下げて考え直すという機運を作っていかなければならない。

    落合 人事のほうも平安時代から引き継いできているところもある。1回作ったものがかなり維持されてしまっている印象を受ける。憲法95条はスーパーシティ法案のときに実現できなかった内容であるとも思っている。


    >統治機構と国家像

    宮田 統治機構の話は国としてのガバナンスをどう効かせるかという話であって、ガバナンスをどう効かせるかという話は「国としてどうあるべきか」といった国家像に繋がっていると思う。この点、よくよく考えていくと日本は国家像がないのではないか。そういう国家像がない中で、統治機構がどうあるか論はどう議論していけばよいのか。

    クロサカ 道州制のときにも、堅牢な国家論はなかったように感じている。どちらかといえば、行政の効率性、市場の大きさといった目的よりも手段のほうから話が進んでいた印象がある。

    稲谷 「ある種の理念化された国家像に向かってウォーターフォールで作っていく」という考え方自体がやや近代的過ぎるやり方ではないか。そのようなやり方が疲弊したために今の議論が始まっているのではないか。他方で、効率性の問題は裏を返すと、ある意味ではより民主的なところがある。経済学的な効率性はこれ以上個人の効用を改善できない状態を意味するわけで、効率性のダイナミクスに基づいて国家という財ないし善の分配装置を作ったほうが結局全ての人の幸福追求権に資する可能性すらあると思う。

    稲谷 効率性とだけ聞くと冷たい感じを受けるかもしれないが、実際問題になっているのは個々人のウェルビーイングが上がりやすい仕組みをどう作るか。日本人は現実的でプラクティカルなやり方のほうが好きなので、このあたりの議論と上手に結び付けながら話を進めていくのがよいと思う。デジタル化の話も、結局一人ひとりのウェルビーイングをどう向上させるかという話に尽きているので、こことも繋がるはずである。


    >道州制のモチベーション

    前田 道州制を入れるモチベーション、その原動力はどこにあるのか。結局どこでスタックしてしまって、この話になるのか。

    稲谷 私の理解する限りではあるが、「地方自治の本旨」という概念が、日本の場合はすごく変な経緯で出来上がっていることが問題の出発点ではないか。日本の「県」という考え方は元々、フランスの大変に中央集権的な仕組みを念頭に置いて作られているわけで、そもそも地方による「自治」という概念自体がものすごく弱いと思う。

    稲谷 すなわち、元々は中央から地方に役人を派遣して、役人が管轄する地理的単位という意味しか基本はなかった。これは明治維新期に、藩が分立して統治していた状態から中央集権国家をどのようにして創出するのかという問題意識の裏返しでもあったが、基本的には協力な中央集権国家による垂直的な統治システムを作っていく過程で、明治期に出来上がった概念であることはほぼ間違いない。

    稲谷 ところが、第二次大戦での敗戦時に、「地方自治のような、国民一人ひとりの声を吸い上げる機関がなかったから、全体主義体制になったのではないか」という意見が出され、こうした考え方の中から「地方の固有のことは地方で決めなければならない」という、いわゆる「地方自治の本旨」に関する解釈論が展開されるに至ったと理解している。つまり、実際のニーズに基づいて出来上がっている議論というよりは、いろいろな時代的制約のもとで生じてきた事情のうち、あるものを憲法的に保障されたものとした、というのが実際のところだと思う。

    稲谷 このように概念の内実が融通無碍なものだとすると、現状をそのままにして、中身をうまく入れ替えればよいとも言えそうだが、いずれにしても結局「地方自治とは何か」という議論には遡らざるを得ない。他方で、道州制の議論は基本的に逆のベクトル、すなわち、「本来地方で決められることは地方で決めるべき」からスタートしていって、しかも細切れになっている市町村単位で考えるよりは少し大きな単位で考えることで、財政的な裏付けなどできやすいように考えていくということだと思う。この地域のニーズに合わせるというベクトルは、デジタル化のための市町村への財政的支援、それぞれの地域のニーズに合わせてデジタル化を進めたいという方向性とも重なる点はある。そういうわけで、地方自治の本旨をめぐる議論は、何か一つの問題で止まっているというよりは、いろいろな歴史的経緯で複雑骨折しながら進んでいるということだと思う。

    クロサカ 地方自治法に取り組んでいる方々にもどこかでお話を聞いてみてもいいかもしれない。この問題は向こう5年にものすごい勢いで火を噴くのではという印象をもっている。というのも、都道府県単位(一部政令指定都市)で地方債の発行ができるが、この10年くらい低金利だとずっと発行体に都合のいい状況だった。ところが現状でももう利払いのほうが多くて、借金返済のために借金しているという状況にある。これから先、利上げは確実だが、そうなると都道府県が破綻するリスクが顕在化する。そうしたとき、統治の考え方自体がよくわからない状況だったからこうなってしまった、といった形で問題がこじれることが懸念され、それに備えておいたほうがよい。しかも、第7次医療計画以降、社会保障の多くの権限と負担を都道府県に全部寄せてしまっているので、医療費などが同時に壊れてしまうような危険性もある。

    落合 コロナのときなど、やはり行政単位でやると、無駄なことばかりやっている状態になっていた。県と政令市が二重にあることの意味もよくわからない、むしろ連携しなくなるような原因になっていたようにも思う。反省してやり直そうと思えば、どういう仕組みが本当はいいのかを考えないといけない。大きく道州制と振りかぶると、直ちにはハンドリングできなくなるかもしれないが、目に見えている問題、直近経験した問題から議論を掘り起こしていくのがよいかもしれない。

    宮田 道州制の議論が進まないことには政治的な理由もあるのではないか。自民党議員も地元選挙のときは県会議員の協力を得ながら選挙を戦う都合上、道州制にすると減る/いなくなる議員をどうするのかがある。また、国との権限分配という視点でも、役所側として人と予算がとられてしまうのは嫌うから、誰も議論を進めたがらない。

    クロサカ 地方議会問題は昨今いろいろなところで噴出し始めている。政治の現場でも、中央から地方への再分配が歪な形で行われており、自民党の派閥とカネの問題にも結局繋がっていく。


    ●規制のデジタル化

    稲谷 自動運転もそうだが、規制のデジタル化を進める際の費用便益計算のフレームワークなどどういう形で費用、便益を計算するのか、あるいは計算するにあたってどういうステークホルダーを考えるのかをきっちりと具体化させていく作業が必ず必要となる。今、テクノロジーマップ含めて、規制の自動化の阻害要因となっているのは、「規制を人間から機械に置き換える」というときに「その水準をどういう形で法的に正当化できるのか」があまり議論されてこなかった点にあると思う。ここにメスを入れないと確実にスタックするし、民間の側からしても規制の自動化を提案するのにどうしたらいいですかということになる。それをした上で、今ある規制をどういう形で変えていくことが可能なのか、あるいはどういう形で民間から提案していくのがいいのかを考えていくことになると思う。


    ●議論提起の仕方

    >ビジョンから考えるべきか?

    クロサカ 「ビジョンを立ててそこから考える」というアプローチは、合意形成しやすいように見える。というより、そもそも私たちはその手法しか知らないのかもしれない。しかし、そのビジョンが本当なのかは疑わしいし、疑わしいビジョンからロードマップを引いてもリアリティがない。たとえば通信産業では、5Gは正しくビジョンドリブンで、ITUが定めたビジョンに基づき、基本的なサービスセットとしての技術標準の体系を3GPPが標準化していく作業を担っているが、有り体に言って失敗している。これは、イノベーションにはサービスイノベーションというサプライヤー側が主導するイノベーションと、ユーザーイノベーションというユーザーが余白を見つけて勝手に遊び出すというイノベーションがあって、ユーザーイノベーションまでたどり着かないともう1回イノベーションのサイクルに戻れないという形になっているにもかかわらず、そのサイクルを無視してビジョンを振りかざしてしまったからだと思っている。

    こういった現実を目の当たりにしている以上、私たちは「そのやり方自体が間違っているのでは?」というところから検証すべきではないか。例えば核兵器の廃絶など、ビジョンには反論の余地はないものの、インセンティブのメカニズムを無視して議論を進めてしまっているものに対して、私たちが「もしかすると違うアプローチのほうがよいのでは」と指摘していくということができるといいかもしれない。来週までに、というようなタイムスパンではなく、2、3年先、10年先のことに対して「とにかく正しい議論の仕方」を見つけて提案していく、というのは一つの切り口としてありうる。

    落合 これまで議論してきた規制のDXや、供給制約、そして自治体や統治機構の話などには、そのような側面があると思う。ゼロから何かを作り出す必要はないような気がしていて、基本的には社会的に議論が起きている/起きそうなテーマに対して、そこをどういう形で軌道修正すればよくなるのか、もっと上手い積み上げ方があるのかを取り上げていけばよい。時々はテーマによって、例えばAIの話がしたいということで、AIガイドラインなどといった個別具体的な最新のトピックを取り上げることがあるとしても、活動の中心自体は個別具体的で直近のテーマではなく、もう少し深めのテーマ、部分について迫っていくということでよいのではないか。


    >プロトタイプ政策研究所の意義

    稲谷 プロトタイプ政策研究所に参加していると「次はこういう形できっと政策に関する議論が進むから、ここの研究のこの部分をみんなにわかりやすくしておこう」という、研究成果を社会実装するための要点がわかってくる。研究者として関わっている立場としては、この点にプロトタイプ政策研究所の存在として意味があると思う。それに加えて、法政策の現場においてなされる、「この方法が間違っているのでは」「このあたりの深掘りが必要なのでは」という話題を皆さんの視点から出していただいて、少しずつ取り組んでいくと必ず、統治構造のような深く流れている理論的な問題に突き当たっていくことが多いように感じている。それは役所の議論、あるいはそれぞれの個別の議論の制約要因として出てきている/出てくるものなので、リアリティと緊急性を伴う個別の論点を積み重ねて、大きな問題を彫琢してしっかりと解決策を提言していくということには極めて大きな学術的・実践的価値がある。乱暴な言い方をすると、抽象的に法学者が何か提言しても誰もついてこないが、現実の問題としてリアリティを持って議論していけばしっかりと社会に伝わっていく可能性があると感じている。

    宮田 ローカルルールの話題を持ち出したのは、もともとは些末な旅館の規制からだったが、そこからいろいろな観点からまさに統治機構そのものの話まで広がっていった。これまでは、「こういうテーマで政策提言を出しましょう」というような形でやってきたところがあるが、そうではなく、各メンバーがふわっとした問題意識を投げて、それに対していろいろ人がいろいろな観点から議論していくという形があってもよいかもしれない。


    >プロトタイプ政策研究所のアウトリーチの仕方

    落合 提言も重要ではあるが、対談した内容を公表する、それを繰り返していくことも重要だと思う。統治機構の議論は1年、2年ぐらいかけてもいいテーマだと思うが、いろいろなテーマを掘り起こしかかっていること自体、その掘り起こしの状況を見える化させておくことだけでも意義があるし、そこまで負担感がなく出せるのではないか。詰めて作るのは年に数個もあれば十分だが、対談形式の見える化であれば全員が参加するわけではないし、メンバーの数もいるので月に2本程度も可能かもしれない。しかも、それを出していく中で、他のメンバーも実はそのテーマに関心があったということがわかって、別の融合反応が起こっていくかもしれない。対談して文字にして起こしてはじめて、それぞれ持っている頭の中のことが可視化されてくるということもあるのではないか。

    クロサカ アメリカでは大学やシンクタンクによるアウトリーチ活動はさらに活発になっている。ワシントンD.C.界隈だと、毎日ほぼ毎朝何件ものミーティングやディスカッションが開催されていて、それがオープンセッションになっていることが多い。そして、その後すぐブログのような形の記事になる。そういったミーティングは、1人がずっと話すのではなく、あるテーマに対して4人ぐらいが壇上に出てきて、最初30、40分でパネリストが話題提供し、残りがオープンマイクになる。オープンマイク部分は、チャタムハウスルールで誰が発言したかはわからないものの、やりとり自体は記事になっている。登壇者の同意を得た場合は、それに加えて、当日の臨場感ある様子がポッドキャストで配信されていることもあって、アメリカではそのあたりをうまく使い分けていて、日本でも取り込めることはある気がする。大事なのは、誰が言ったかをファクトとして残しデジタルタトゥー化することではなく、「そういう議論でこういう考え方をしてもいいんだ」「こういうアプローチをとってもいいんだ」ということをもっと伝えていくことである。今のプロトタイプ政策研究所のメンバーは個々人がポテンシャルをもっているので、様々な手段を上手く使いながら外に発信していくのがよいのではないか。

    落合 クロサカ先生と議論していた経産省とのインフラの話も、ペーパーとしてではなく、対談の書き起こしの形で出してみるのがよいかもしれない。

    クロサカ ペーパーにすることもどこかでは必要かもしれないが、いずれにしても、トップダウンの形でエネルギーと通信のデザインを個別に進めるのは時代錯誤だと感じている。トップダウンだと上手くいかなくて現状課題に直面しているということでもあるので、ボトムアップともまた違うが、何かアプローチをディスカッションの中で入れ込んでいきたい。初めからペーパーにしてしまうとそれで固まってしまうので、まずはディスカッションから始めてそこから少しずつ広げていくのがよいのではないか。

    落合 以前公表したグレーゾーンの話題なども、もう一度対談の形でフォローアップなどできればよいかもしれない。

    宮田 今日の統治機構の話題は1年かけてディスカッションしていくべきかもしれないが、今日話しただけでも対談記事ぐらいでかなり気づきがあるものになるかもしれない。国家としてこうあるべき論があって…という考え方自体が批判的意味での近代で、その発想からの脱却が重要というメッセージだけでもかなり価値があるのではないか。


    ●準公共データの整備

    クロサカ データそのものだけを議論しても足りなくて、少なくともデータ、処理プロセス、インセンティブというこの3つが同じ地平の上で議論すべき。データだけ揃えましょうといったとしても必ず失敗することになるし、インセンティブの議論はもっと深掘りしなければならない。インセンティブは、その構造を分析し正当化するだけでは結局スケールの問題になって、ビッグテックを肯定する話に回収されてしまう。それはデータ化という一番基礎の部分を彼らに渡してしまうことになるという課題があって、そうすると彼らにとって都合がよいデータしか可視化されない。また、データは処理されてはじめて意味があるが、データの相互運用性を考えることだけに徹してしまった結果、データはそれなりにみんなで使えるものになっているのに対し、処理の体系が全く整備されておらず、「これ結局どうやって価値化すればよいのか」という状態になってしまっている。

    宮田 インセンティブの議論は、経産省でも、協調領域や競争領域という言い方をしてみたり、いろいろなところで散発的に議論されているが、一度それらの議論を統合するだけで価値があるように感じている。

    稲谷 フレームワークをどう考えるのかに関係するかもしれないが、これは①消費者厚生を害するという問題と同じぐらい、②アンチコモンズで社会厚生が害されるという問題についても、見なければいけないと思う。今あるインセンティブの構造が片面的だとすると、それをOptimalのより良い状況に変えていくにはどういう仕組み、仕掛けを作っていくべきか。そのときには処理の仕方もだが、誰がどういう形で作ってどういったビジネスモデルが立ち上がるのかとも直結してくる。

    落合 準公共という分野で総合的に合意できる可能性があるのは、ものすごく小さい範囲しかない可能性がある。銀行とクレジットカードの分野でもかなり揉めている。ただそうはいうものの、フレームを少しずつ準備していかないと議論自体がまとまらないので、一気に全部完成させるのは難しいと思うが、土台となるような共通論点を作り整理していくのは必要である。

    稲谷 ベンダーロックインの話もデジタルプラットフォームの話も、主体を消費者にするのか個別にするのかという話も、基本は特定のデータの囲い込みにより生じるレントの取り方をどうすればまともに変えることができるかという文脈でみると、全部同じように理解できるのではないか。レントの取り合いで戦うのは正常な状態とはいえない。準公共でデータが解放されることによって、みんなでいろいろなサービスを作り合いながら、そのサービスの価値が高まっていき、それで競争力も上がっていく。そして全体がハッピーになる、というのが本来のはず。しかしそれに対して、どこかの企業がある程度データを囲い込んでレントを取りながら、かつそれぞれのブロック経済圏のように戦っている状態だと、もっと大きい企業が出てきたときに全部負けてしまう。

    稲谷 データポータビリティとは、「レントをとることを妨げる仕組み」、つまり「ある企業が質の悪いことやるようであれば、関係しているデータを全部持って別の企業に移行する」旨を予告することで、自然とそれなりにきっちりとしたサービスで戦う方向に向かわせる仕組みなので、ある意味準公共データの存在に近づけていく一つの作戦として理解することができる。一度こういった観点から議論を整理してみる、どういう形でそれぞれの論点がこれまで議論されてきたのかというマッピングをしてみると、共通の構造が見えてくるかもしれない。

    落合 レントが結局インセンティブ構造の裏側にある。業界によってはレントの量であったり、レントが影響を与えているインセンティブ構造は違うかもしれないが、物差しとしてうまくまとめていくことはできるかもしれない。

    稲谷 イギリスのデータポータビリティの話は、消費者厚生でまとめられているかもしれない。特定の企業から抜けられないと、その企業から抜けられないことを利用して不適切なサービスをやり続けるというリスクが回避できなくなるので、という議論の流れはまさに囲い込んでレントを取るという議論である。そうすると、イギリスでの議論は一つの参考になると思う。消費者厚生でまとめていく姿勢からすると、イギリスが準公共データを開放していることの背景もうまく理解できるかもしれない。

    稲谷 イギリスは、デジタルプラットフォーム規制の文脈でも、消費者厚生を本当に害するのかという考え方を最後には入れていると聞く。そこは、ヨーロッパとは発想が全く違うところだと思う。そのような考え方を評価軸としてぶれないように作ったおかげで、「社会的厚生を改善するために、データ共有の領域でも何とかアンチコモンズを解こう」としているように思われる。イギリスは、自動運転も含めてかなりプラクティカルに取り組んでいて、理想論に基づいて一気に制度を変えるわけではないが、経験に、あるいはデータに基づいて、確実にまずそうなところからきっちりと修正していくというやり方をしているので、日本の法政策の今後を考える上でも大変参考になると思う。


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